全日病ニュース

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現場のルールを積み重ねて国民に認めてもらう。その延長に法がある!

【終末期医療に関する座談会(その1)】
どうすれば終末期医療は大きく変わるのか?

現場のルールを積み重ねて国民に認めてもらう。
その延長に法がある!

現場は家族の意向を踏まえて終末期に臨んでいる

池上 終末期という言葉は、最初はがんと植物状態の患者だけに使われていました。しかし、がんのイメージと終末期のイメージが完全に重なっていた状態から、特に虚弱高齢者の終末期というものが状態像の1つに入って、むしろ、そちらのほうが主流であるというようになってきたということは、まさに、啓発的な動きの成果であると思います。
 「終末期医療に関する意識調査等検討会」の報告書(14年3月)を作成する上で、私が教育・研修の重要性を強調したのは、例えば、東海大付属病院や川崎協同病院の事件では、こういう行為をするとどんなGLをつくっても違法になるということを医師が知らなかったわけで、たとえ患者・家族のためと思ってやったことでも、法律の解釈がいかに変わろうとも越えてはいけない線があるということが教育・研修で周知されていれば、あのようなことはしなかったはずだと考えたからです。
 つまり、法律の解釈は変わるけれど変わらないところがあるということです。
宮澤 コアな部分は変わらないというのは、そのとおりだと思います。積極的な安楽死が適法になることは恐らくあり得ないと思います。
池上 それが徐々に浸透してきたので、このような不幸な事件は発生しにくくなっていると思います。もう1つ。実は私の研究の一環で死亡退院した患者の遺族に終末期の経験を伺いました。その結果と08年に実施した国民意識調査の結果とで、際立って違うのは、医師は自分の言うことをよく聞いてくれるかという質問に、国民の意識調査では「よく聞いてくれると思う」という回答は1割ぐらいしかないのですが、遺族の回答では7割以上が「よく聞いてくれた」と答えていることです。
 医師は家族の言うことを無視して勝手なことをやっているのではなく、少なくとも家族の意向を確認するということは日常的に行なっているということを、もう少し周知徹底する必要があると思います。

GLによる対応の積み上げか、法による免責か。現場には葛藤も

木村 今までのご意見は、法律は変わっていくものであるが、ただ、一線を越えてはいけないということろがあって、特に積極的な安楽死は認められなないということでよろしいですね。全日病もそういう考え方でガイドラインを出しています。もっとも、欧州の中には積極的安楽死を認めている国もあり、現在の日本は積極的安楽死は認めていないし、我々も認める立場にはないのですが、将来的にどうなるか、また法律が変わっていく可能性もないとはいえません。
池上 オランダなど積極的な安楽死を認めている国は、医師の判断に基づく積極的安楽死ではなく、患者からのたっての願いに基づくものです。ですから、例えば東海大でやったようなことは合法かというと、それは合法とはなりません。
宮澤 大枠で言うと、終末期の患者がいて、その患者にどう対応するかという状況があり、一方で医療の限界という側面があり、他方で患者の意思というものがある。この3つの観点が全部揃ったときに、あるいは積極的な安楽死というのを認めるということになる可能性がまったくないわけではなく、それはどうなるかはわかりません。少なくとも、この3つがあって初めて尊厳死をどうするかという問題が出てくるということです。この点は、あらかじめお話させていただきます。
木村 その場合にも、医師は必ずしも免責されないという解釈でよろしいですか。
宮澤 現行法では、そういう解釈で結構かと思うんです。問題はガイドラインが浸透していかない、これをどう考えるかということです。
 先ほど横野先生が小さな自由と大きな自由と言いました。実務家としては、1つ1つの事件の中で解決をしていくのが小さな自由の確保だと思うのですが、大きな自由というのは、日頃の診療の中でどの様な行為が適法であり大丈夫であるということがはっきり分かるということで、これが一番大事なことではないかと思います。
 それを突き詰めていったらどうなるか。刑事法は「これをやってはだめ。それ以外はやってもオーケー」というネガティブリストの世界ですが、どこまでの自由が認められているのかが最もはっきり分かるのが法制化ではないかと思うのです。
 もちろん実際には、ガイドラインの積み重ねを経て法制化にいたるというプロセスになるのでしょうし、大きな自由を保障するGLが進まなくても、最終的には法制化によって一気に広がるのは間違いないでしょう。ただ、今の段階では、GLによってどういう形で進めていくのか、そして、国民的なコンセンサスの理解をどのように得ていくのか、それが一番大事なことではないかと思っています。
横野 英米では事前に裁判所に申し立てをして、裁判所で、この患者さんにこういう状況でこれを行なった場合には違法にはならないという判断をもらうことはできる。したがって、医師の裁量で行なう行為のすべてについて医師の免責を確実にすることはできないということが一つ言えるかと。それから、諸外国の立法経緯などをみていると、尊厳死の法制化は基本的には患者の権利の方向からアプローチされてきています。医師の免責が前面に出るというアプローチでいいのか、それで終末期医療が本当に私たちが望むようなものになるのかと、私は個人的には疑問を持っています。
木村 なぜ我々のGLが広がらないか、その1つの原因に、GLどおりにやっても免責されないのではという恐れがあるように思うんです。ただ、徳田先生が指摘されたように、なくてもそんなに困っていないということ、つまり、GLどおりでなくても、各病院で色々なルールをつくって対応しているという面もあると思うのです。
 昔だったらがん末期であろうが、お年寄りであろうが、どんな人でも亡くなるときは、とにかくやるべきことをすべて最後までやるのが当たり前でした。それが今や、そういうことをやっても仕方がない人にはやらないというふうになってきています。
 そういう点で、免責されるかどうかというのが法律で決まるのか、それとも、法律ではなく国民世論としてそういうルールというか、例えばGLで決めていったほうがいいのかという葛藤のようなものがあるとは思うんです。

法律よりも標準化こそ患者が望む終末期を実現する

徳田 終末期に対して、医療の現場は色々な取り組みを行なってきており、その結果、患者や家族の思いも含め、色々なことが見えてきています。そういう中で積み上げられてきた情報をもっと共有化することによって、こういう場面ではどのようにしたらよいか、分かりやすい事例を広く周知させていくことが大切なのではないでしょうか。
 先ほどの池上先生のお話は、情報をきちんと伝えることによって患者や家族側の判断がよりよい方向に向いてきているということだと思います。したがって、そういう情報をより積極的に伝えていけば、法律でどうこうしなくても、あるいは医師の免責云々を言わなくても、より患者に寄り添った終末期医療ができるという方向に行くのではないかと、最近、私は信じて疑わないんです。
 では、どうやってそういう方向に早く向けていくのか。それは標準化ではないでしょうか。皆が同じような物の考え方ができて、判断も同じようになるという取り組みをすべきだと。むしろ、そちらのほうに力点を置きたいと思っています。
宮澤 徳田先生が言うように、患者にとって何が一番幸せなのか。もちろん、亡くなるに当たっては苦痛の少ないことが、客観的に推測される望みだと思います。ただ、それがどういう診療行為であるのか、そして、それがその方に本当によいことなのかというのを我々は知らないわけです。
 やはり私が一番中心に置きたいのは、どういうことをすれば患者ないし家族に一番幸せなのかということだと思います。そして、それが法律的にも正しいことだということをどうサポートしていくのかというのが、我々の使命だと思っています。ですから、決して、先生方と違う方向を向いているとは思っていないんです。(9月1日号に続く)

□終末期医療のあり方を考える上で参考となる主な資料

・全日病「終末期医療に関するガイドライン-よりよい終末期を迎えるために」(2009年5月)
・厚生労働省「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」(2007年5月)
・日本医師会「終末期医療に関するガイドラインについて」(2008年2月)
・日本透析医学会「維持血液透析の開始と継続に関する意思決定プロセスについての提言」(2014年)
・日本救急医学会・日本集中医学会・日本循環器学会「救急・集中治療における終末期医療に関する提言(ガイドラン)案」(2014年4月)
・「終末期医療に関する意識調査等検討会報告書」(2014年3月)
・終末期医療に関する意識調査等検討会「人生の最終段階における医療に関する意識調査報告書」(2014年3月)
・厚生労働科学研究費補助金分担研究報告書「終末期医療に対する対応」(研究分担者池上直己慶応義塾大学医学部教授)