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ホーム全日病ニュース(2024年)第1054回/2024年5月1日号大学での研究から地域医療に貢献する道へ/徹底した経営哲学の実践で黒字転換

大学での研究から地域医療に貢献する道へ/
徹底した経営哲学の実践で黒字転換

大学での研究から地域医療に貢献する道へ/
徹底した経営哲学の実践で黒字転換

【シリーズ●病院の事業承継②】
医療法人ロコメディカル 江口病院
会長 江口尚久/理事長 江口有一郎

 病院の事業承継シリーズの第2弾では、医療法人ロコメディカル・江口病院(佐賀県小城市)の事例を紹介する。江口病院は、尚久会長の代で診療所から約100床の医療法人となり、現在の有一郎理事長の代で、徹底した経営哲学の実践により持分あり医療法人として運営していけるだけの経営体力を確保した。今後は地域密着型病院として、より地域の生活に根差した病院を目指している(3月11日にオンラインで取材)。

100年続く地域医療の病院
── 江口病院は佐賀県小城市で100年の歴史をもつ病院ですね。

尚久会長 私の祖父にあたる江口秀吉(ひできち)が大正のはじめにこの地で江口醫院を開設し、父・江口萬(よろず)が継承しました。私は三代目です。1969年に久留米大学の医学部を卒業し、その後15年ほど大学にいたのですが、その頃父も70代後半になっておりまして私に直接は言わないけれど、「そろそろ(息子が)帰ってこんかな」と周囲にこぼしていると伝え聞くようになったのです。
 ちょうどその頃大学から外国留学してはどうかとも言われていたのですが、留学してしまうと大学に残って教師・スタッフとして働くことになるので、留学を固辞し、父のもとへ帰りますと告げて戻ってきました。父のやってきた地域の求めに応じる医療はずっと見ていたので、問題なく承継できました。
 その後、1985年の第一次医療法改正に伴って地域医療計画が始まり、地域に対する基準病床数が決まったのですが、県に相談に行くと、100床程度が認められたため、1988年に98床の病院にしました。当時この地域では100床規模の病院は3つだけだったので、過剰病床だとしても、とにかく地域のニーズに合うかどうかやってみようと。それから10年くらい頑張った後に、現在の医療法人ロコメディカルを設立しました。
有一郎理事長 曾祖父にあたる秀吉が地域から招へいされて江口醫院をつくる前、この辺りは無医村だったと聞いています。当時の写真はほとんど残っていないのですが、曾祖父の写真を見ると父に似ていて、祖父には私が似ている、隔世遺伝ですね(笑)。
 祖父の萬は久留米大学の前身・久留米医専卒の外科医で、満州鉄道病院に出向したのち、陸軍の軍医としてビルマ戦線を戦い抜いて生き延びた人です。当時の日記を隠し持っていて父の弟がそれを一冊の本にまとめていますが、読むと血気盛んだったことが伝わってきます。その跡をついだのが父で、もともと無床診療所だったのを父が有床診療所にして、医療法人に変わって、現在の98床のケアミックスになったという経緯ですね。
 私は1994年、佐賀医科大学(現・佐賀大学医学部)を卒業して、その後佐賀大学で研修医をして、国内留学で埼玉医科大学に4年ほど行き、2000年に助教として佐賀大学に戻りました。私は珍しく大学病院以外には出向したことがない医者です。大学で肝臓病の研究をしていました。父の専門が消化器のなかでも特に肝臓だったので、私も肝臓内科に進みました。
 祖父も父も久留米大学出身です。100年以上続く名門の消化器内科の医局であるわけで、本来なら私も久留米大学の消化器内科にお世話になるのが筋です。進学先を決めるにあたり祖父と父と話し合ったとき、祖父は「佐賀で開業するんだったら佐賀(大学)がよかさ」と佐賀弁で言ってくれました。久留米大学にこだわらなくていいのだと背中を押されたような気持になりました。そんな祖父も私が大学5年のときに肝硬変で亡くなりました。

肝がんワーストの汚名返上
── 有一郎理事長は肝臓の研究の第一線でご活躍でしたね。

有一郎理事長 佐賀県は肝臓がん患者が非常に多く、長年肝がん死亡者数がワースト1位だったのです。
 背景として、歴史上国内で初めて東洋医学から西洋医学に切り替えたのが当時の鍋島藩だったことがあります。
 天然痘予防のため、中国から伝わった人のかさぶたを砕いて鼻から吸引する「人痘法」という方法では天然痘を発症する確率が高く、免疫はできるが天然痘に感染しないジェンナーが発明した「牛痘法」を最初に採用したのが、鍋島藩だったのです。ただ、シーボルトが出島に伝えたこの治療法は、注射器を用いて牛痘を摂取する方法なので、実はそのときC型肝炎が日本に入ってきたという説があります。
 また筑後川を中心に日本住血吸虫が寄生するミヤイリガイという貝を媒介にして日本住血吸虫症という病気が局所的に流行しました。その際スチブナールという薬を駆虫剤として使っていたのが、佐賀・福岡地域、山梨地区、広島県東部地域で、この地域は肝がんが多くなっています。
 スチブナールは劇薬なので希釈して静脈注射をゆっくり打ちます。昔のガラスの注射器と使い捨てではない針を使い、当時の消毒技術水準の状況の中で、肝炎ウイルスが拡散したと言われています。肝硬変、肝臓がんというのは、30年くらいかけて起こるので、だいたい30年前に行われた医療行為に原因が探れます。
 そのような中で、ワースト1位の汚名返上をしたいと考えた佐賀県から、ちょうど佐賀大学で教授になった私に声がかかりました。世界最大手のコンサルティング会社であるマッキンゼー&カンパニーと公衆衛生の研究を一緒にやることになり、問題解決について戦略的に実践する方法を勉強しました。今でも彼らとは付き合いがあります。
 戦略的な攻めの公衆衛生で肝がんを減らし、2019年に死亡者数ワースト1位を逃れて汚名返上することができました。この経緯は『い肝ば、い肝』(佐賀新聞社)という本にまとめています。臨床医として長年肝臓がんの治療にあたってきたのですが、公衆衛生という地域を高い視座から見るという訓練を受けたことは、地域医療の大切さ、未病の段階から生活習慣を変える予防医療を地域からやっていく大切さを改めて知る機会となりました。
 ちょうどそんなとき、奇しくも父がかつて祖父から受けたのと同じように、周囲から父が飲み屋などで私に帰ってきてほしいと言っていると聞きました。我々の家族はそれぞれの人生に上が口を出さない雰囲気がずっとあって、私も子どもたちにはそういうことは言わないのですけど、父は周りには本音を漏らしていたみたいですね(笑)。

地域医療に貢献する道を選ぶ
── 地域の病院に戻ることに心残りはありませんでしたか。

有一郎理事長 正直、大学の教授という立場に飽きてしまった部分はあります。学会の懇親会で偉くなりたい人がギラギラして集まってフランス料理を食べる、みたいなことが嫌になったという(笑)。自分は学会で偉くなるために医者になったのではない。そんなことにまったく魅力を感じなくなりました。純粋な学問は好きです。でも大学という場の価値観に自分が合わなくなってしまいました。
 いろいろな大学の教授から、「なぜ大学をやめるの?」とは言われました。地域の肝臓がんを減らす研究は全国で初めてのことだし、攻めの公衆衛生で地域の疾病対策を実践した人は他には少ないから、全国どこの大学からも引く手あまたで教授になれるのにと。実際にいくつかの大学から教授として来ないかというお話もいただきましたが、お断りしました。ちょうど高校の後輩で信頼できる男が一人前になって、年齢的にも私が教授になったのと同じ42歳だったので、代わってくれと言って大学を辞めて帰ってきました。
 もし佐賀県の肝臓がん死亡率ワースト1位の汚名返上ができていなかったら、帰らなかったかもしれません。敵前逃亡になりますから。ここでやめたら男が廃るだろうと。だからタイミングがよかったのでしょう。
 祖父が現役で江口醫院をやっていて、父が久留米大学にいた頃も父は、盆と正月は祖父のもとに帰って診療所を手伝って2人でやっていました。
 父は診療所で患者さんを診察して、祖父は車を運転して往診に出かける。私はまだ小学生くらいでしたが、往診について行くことがありました。往診と言っても、個別訪問ではなく公民館に集まって、血圧を測ったり、注射を打ったり、薬を処方するといった感じです。当時、地方では、医者は本当に有難がられました。私も「先生のお孫さん」ということで患者さんからお菓子をもらったり待ち時間に川で魚釣りを一緒にしたりと可愛がってもらいました。本当の意味のかかりつけ医、家庭医の姿を実際に見ていたのですね。
 あと昔の診療所は、古い木造で、診察室と自宅がつながっていて、鍵穴から診察室を覗くことができました。祖父が診察する姿を鍵穴に目を当てて見ていたこともありました。今思えば、行動心理学的にわざとそういう演出にして、子どもの私が見たくなるような仕掛けだったのかもしれません。
 だから子どものころから何となくいつか自分は開業すると思っていましたし、年齢的にもちょうど50歳だったということもあっていい頃合いかなと思えるタイミングでした。

経営を徹底して勉強し成果を出す
── 江口病院に戻ると診療よりも経営に重きを置くことになりますね。

有一郎理事長 経営については、厳しい時代に突入しているわけですから、もう少し喝を入れて、新しい方向でやらなければという思いもあり、ためらいなく承継する動機になりました。
尚久会長 息子が2020年4月に大学を辞めて地域に戻ると決めて帰ってきて、私は単純に「後継者ができた、病院を継続できる、よかった!」と率直に喜びました。一方で、医療制度や世の中がどんどん変わるなかで、旧来の考えではなかなかうまくいかないことが出てきていたのを感じていました。
 理事長が私で、有一郎が副理事長という立場になり、それまでも非常勤で病院に来てもらうことはあり、病院のことはある程度わかっているようでしたので、私からどうこう言うことはなく、そのまま継続するような形でスタートしました。2023年の4月に私が理事長を退任して、息子が理事長に就任することになりました。
有一郎理事長 副理事長就任前にも、週1回の経営会議・幹部会議には出席し状況を聞いていました。会計事務所からの報告や経営の数字を見て、どう見ても潤った元気な経営ではなさそうだ、これでは苦しいから何とかしなくてはいかんと思いました。
 旧江口病院の建物が築30年経過して老朽化が目立ち、耐震構造の問題も出ていたので2018年に新築しました。それで巨額の借入金が発生していたということもあります。返済すべき額から逆算していくと、状況をガラッと変えて大きく収益性を考えた経営にしていかなくてはいけないと考えたのです。
 大学病院で目標にしていた肝臓がん死亡率ワースト1位が回避できそうな見込みが立って地域に帰ることを考え始めた時期から、とにかく経営に関する本を読みまくりました。東京ディズニーランドやリッツカールトン、星野リゾートといった成功例として有名な経営者の本をAmazonが勧めてくるままに片っ端から読んで、あとはマッキンゼーなどのコンサルティングファームの戦略的な経営コンサルティングの本をはじめいろいろな経営に関する本を読みました。
 そのなかで一番フィットしたのが稲盛和夫京セラ名誉会長の経営に関する考え方と日本航空の再生の話だったのです。日本航空の再生は今のあるべき病院の方向性と近似したものがあったので、これを参考にしようと決めました。そこで「京セラフィロソフィ」「JALフィロソフィ」といった経営哲学と、「アメーバ経営」(会社組織を小さな集団=アメーバに細分化し、アメーバごとに独立採算で経営する稲盛和夫氏考案の経営手法)を導入しようと考えて腰を据えて勉強しました。
 当時130名くらいの職員がいましたが、病院内に雰囲気が明るい部署と暗い部署があって、違う方向を向いているところがあると感じていました。
 父とも話して許可をもらい、経営方針、行動理念・規範を『ロコメディカルフィロソフィ』という1冊の本にまとめ、週1回職員10名程度と食事をする機会を設け、「こういう経営方針でやっていく。ついてくるのがしんどい者は自分で幸せな場所を探してくれ」と話しました。
 事業承継の時点でおそらく職員の3分の1くらいは入れ替わるだろうと想定していました。それでも構わない、人手が足りなくなればダウンサイジングすればよい、とにかく大事なことはやりたい医療をやることだという覚悟を持ち、フィロソフィとアメーバ経営の導入を決定しました。
── 成果はいかがでしたか。
有一郎理事長 最初の2年はフィロソフィのみを徹底しました。
 その段階で明らかに黒字化に向かっているのがわかったのです。減価償却費が大きいから会計報告の数字は赤字でも、減価償却分を差し引けば十分黒字でした。これはいけると思ってアメーバ経営に踏み切ったら、ぐんぐん伸びて毎年収益増になっています。職員も増えて、みんなでやっていこうという力が強くなっていきました。フィロソフィが徹底され、共通言語で問題解決する姿勢になったため、喧嘩も減りました。
 アメーバ経営をコンサルティングする専門の会社である京セラコミュニケーションシステムズには、全国的にもここまでフィロソフィとアメーバ経営をしっかり取り入れている病院は例がないと言われています。


有一郎理事長

コロナ禍で経営改善の効果を実感
── 有一郎理事長が病院に戻られた頃はコロナ禍と重なりますが、いかがでしたか。

有一郎理事長 病院の経営に対して明確なブランディングが確立したのは、実は新型コロナウイルス感染症のまん延が一番大きいです。2020年4月1日に副理事長に就任して、7日に緊急事態宣言が出ました。大学病院から実家に帰ったとたんに、コロナとの闘いが始まったわけです。2021年8月に県から「医療がひっ迫しているのでコロナ病床をつくってほしい」という要請が来ました。
 佐賀県とは肝臓がんのプロジェクトで知事とも職員とも顔見知りだったので、断らないことを前提に頼まれたのだと思って、二つ返事でやることにしました。電話が来たとき、私は厚生労働省にいたのですが、飛行機に飛び乗って、その日の夕方には県庁の人と病院で打ち合わせをしていましたね。
 コロナ病棟をつくるとなると、働く人間のチーム力がないと立ち行かない、共通の敵があるとチームは結束するわけです。コロナという大きな敵に立ち向かうことで、結束力や助け合いの精神が育ったということでは、まさに禍を転じて福と為すという思いです。
尚久会長 コロナ病床に関しては、10床の新病棟を敷地の中に作りましたが、「箱」はできても当然働く人がいないと機能しないわけです。コロナは今でこそ5類になりましたが、当初は感染性が強い、怖い病気だと言われていました。
 コロナ病床で働く職員を法人の中で募ったところ、医師で4人、看護師や看護補助者などで10人弱くらいの手上げがありました。当時のあの恐ろしいコロナ禍で進んでやりますと手を挙げてくれたのです。
 それまで培ったフィロソフィが職員に浸透し、この法人で働くみんなの心が一つの方向に向かっていることを感じることができました。医師、コメディカルのみんな一人ひとりが経営者として、仕事に向き合うという思想がかなりの確実性を持って、職員の心に育ってきたことを実感できる体験でした。コロナ病床の開設を決断したことは非常に大きな意味があったと思っています。
有一郎理事長 医療自体が厳しい業界になっている状況で、コンサルティング会社が持ってくる病院の成功事例をなぞるだけではつまらないし、コロナ禍のような事態にも太刀打ちできません。むしろ、まったく別業界から新しい風をもってこないと危機を乗り越えることは難しいと思っています。
 当院は幸運なことに、経営の見通しが立ってきて、職員が学会や企業のセミナーに参加して勉強・研究することもできるようになりました。それも一つの投資だと思っています。どんどんチャレンジングなことができるぐらいに、経営の体力ができてきました。
 持分の「あり・なし」をめぐり医療法人の移行が今すごく進んでいて、持分なしだと相続についてはとても有利になります。吉と出るか凶と出るかわからないけれど、そこをあえて持分ありにしました。顧問税理士事務所とも相談して、持分ありで、やりたい医療をやった方が病院のためにはよいと判断しました。
 持分ありだと、大きな設備投資や病院の建替え・改築の際にまとまったお金が必要になりますが、好きな投資・使い方ができ、思い切った采配ができます。その代わり、責任は100%負うことになります。

まちづくりの中心に病院を置く
── 今後のビジョンについてお聞かせください。

尚久会長 当地域は人口減少が急激に進展しています。けれども、私と同じようにここで育ち、生活している方、ここで終わりを迎えることを望む患者さんがたくさんいます。やりたい医療よりも地域に求められる医療が何かということを確認しつつ、地域で生活する患者さんたちを、医療を通じて支えていきたいというところに、私の心があります。
有一郎理事長 先日、我々の病院に接している2つの区の生産組合をはじめ、地域の農家で次代を担う若手の方々と一緒に食事をする場をつくってもらいお話ししましたが、私たちが医療を通じて考えている以上に、病院に対する多大な期待を感じました。
 みなさん非常に遠慮がちでしたが、口をそろえて自分が死ぬときはここだし、自分の親も看取ってもらうことになるので、頼りにしていると言われます。そのとき思ったのは、もっと地域との距離が近く開かれた病院になるべきではないかということです。
 病院は営業として診療、介護でお金を頂戴しているけど、その概念に捉われずに、地域の人々が気軽に集まれるような場所として、ついでに医療、介護を受けるぐらいの形のほうがよいのではないかと。例えば、大きな待合のエリアをつくって、子どもたちは学童保育のように安全なデイケアでお預かりし、親御さんは迎えに来たときに診察を受けお薬をもらって帰ったり、あるいは子どもたちが遊んでいる間に健診するというような。高齢者がデイケアで畑仕事をするような、佐賀のこの地でしかできない農業による作業療法もよいかもしれません。
 地域からもっと頼りにされる病院になりたいけれど、そこに見えない壁があるのであれば、それはなくしたい。病院の周りにはフェンスがありますが、フェンスも取っ払ってしまおうかと思っています(笑)。
 地域のまちづくりに取り組んでいる医療機関は、全国に青森や富山などの事例があります。人口減少の中で、病人だけを相手にする医療介護ではなく、予防の相談も病院が積極的に受けるといったこともやっていきたい。
 今年の秋はお祭りをやろうと地域の人たちと話が弾みました。ポストコロナになったし、ちょうどよい時期だから、医療・介護も変えてしまおうかなと。地域包括ケアシステムや地域医療構想で厚労省がイメージとして地域の姿を示していますよね。あのようなイメージの小城市版をつくることも次のステップだと思っています。


尚久会長

 

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