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ホーム全日病ニュース(2024年)第1047回/2024年1月1日・15日合併号地域医療を守るために病院を継承 スピード感ある判断が民間病院の強み

地域医療を守るために病院を継承
スピード感ある判断が民間病院の強み

地域医療を守るために病院を継承
スピード感ある判断が民間病院の強み

【全日病広報委員会企画 新春座談会】親子で語る民間病院の事業承継


左から高橋教授、横倉義典院長、横倉義武理事長、神野正博理事長、神野正隆理事長補佐、浜脇理事長

出席者(文中敬称略)
社会医療法人弘恵会 ヨコクラ病院理事長、日本医師会名誉会長 横倉義武
社会医療法人弘恵会 ヨコクラ病院院長・副理事長 横倉義典
社会医療法人財団董仙会 恵寿総合病院理事長、全日病副会長 神野正博
社会医療法人財団董仙会 恵寿総合病院理事長補佐 神野正隆
国際医療福祉大学教授、全日病広報委員会特別委員〈司会〉 高橋泰
医療法人社団おると会 浜脇整形外科病院理事長、広報委員会委員〈司会〉 浜脇澄伊

浜脇 全日病では若い世代の経営者への事業承継が進んできています。そこで広報委員会では新年を機に、民間病院の事業承継について経営者親子に語っていただく企画をスタートします。その第一弾となる今回は、社会医療法人弘恵会ヨコクラ病院の横倉義武理事長・横倉義典院長と、社会医療法人財団董仙会恵寿総合病院の神野正博理事長・神野正隆理事長補佐の二組の経営者親子にご議論いただきます。

“手術の名手”の次男が継ぐ
高橋 横倉義武先生と神野正博先生は、お二人ともお父上から病院を承継されています。まずお二人がどのようにして病院を継いだか、お聞かせください。
横倉義武 私の父の横倉弘吉は1945年に高田村中央診療所を開設し、その後、高田町で横倉病院を開きました。兄は病院を継がなかったので、次男の私が継ぐことになりました。
 私は久留米大学大学院で学び、ドイツへの留学も経験しました。“手術の名手”と呼ばれていたのです。臨床を続けたいという思いもありましたが、誰かが地域で医療を守り、行政との折衝をしなければならないと思い、病院を継ぐことを決めました。
 ヨコクラ病院は人口約1万2千人ほどの小さな町にあるので、町独自の行政のやり方があり、医師会と行政とがいつも折衝をしながら町民の健康教育などを行っていました。町の開業医が順番に町民への行事を担当するのです。私はその中では一番若かったので、父の築いてくれた基盤はあったとはいえ、わがままを言う開業医と行政をつなぐことに苦労しました。

保証人のハンコが“見えない鎖”
神野正博 私は病院経営者としては3代目です。祖父の神野正隣が1934年に神野病院を創立し、父の神野正一が2代目の病院長となり、私が1993年に継ぎました。
 私は、大学は東京の日本医科大学に通っていました。日本医科大学に残ったほうが楽しく過ごせたかもしれないけれど、金沢大学の医局に入り、大学院を修了して助手になりました。
 当時、金沢大学に優秀な後輩がいました。国立大学のポジションには定員があったので、自分が助手を退かなければ、後輩は上がっていけません。彼は医師の子弟でもなかったから、私が助手をやめて病院を継ぎ、そのポストに後輩を引き上げるのが世のためになると思ったのです。
 同時に、父が年齢を重ねていたので、そろそろ病院に帰らないと父が苦労するなという思いもありました。
 そして、今では考えられないことかもしれませんが、当時は医学部を卒業するとすぐに自分のところに病院の事務長さんが来て、病院の借金の保証人として書類にハンコを押すように言うのです。年をとった父の代わりに、私は若い頃から、銀行や福祉医療機構からの借金の保証人になっていました。「あのハンコを押したのは自分だから、いずれ病院に帰らなければならない」と責任は感じていましたね。
横倉義武 私も若い頃からハンコを押しました。当時、理事長の子息が大学医学部に入ると、銀行はその病院にお金を貸してくれるのです。その子が医学部を出たら、保証人になれるから。
神野正博 そうですね。息子が医学部に入ったことを、身内以外で一番喜んでいたのは銀行です(笑)。
 理事長になってから、医師個人が保証人になってハンコを押すのはおかしいと言い続けてきました。社会医療法人で、本来は個人ではなく法人が返すお金ですから。そのおかげで徐々に個人で押すハンコは少なくなりました。
浜脇 保証人になることが民間病院の事業承継のファーストステップになっていた面があるのですね。“見えない鎖”につながれる感じです。
神野正隆 私は、個人のハンコは押したことはありません。社会医療法人は、神野家のものではなく公器ですから、そこに神野のハンコを押すことはないですし、神野家の財産にもならないという理解です。
横倉義典 私の場合は、母に経営を教わりながら、ハンコをどんどん押しましたが、それは父のハンコでした。

病院の建て替えを機に帰国
高橋 それでは、横倉義典先生と神野正隆先生はどのようにして病院経営の道に入られたのでしょうか。
横倉義典 私は高校生の頃、県立高校に通うために祖父母の家で暮らしました。その時に、家の中全体が医師の仕事のために動いているという感じだったので、医師をめざすのは自然なことでした。
 父と同じ久留米大学医学部に入り、2009年にドイツのミュンスター大学に留学しました。向こうで手術の経験も積んで、充実した日々でした。留学先ではレジデントに残らないかと誘われたりして、当時の私にはさまざまな選択肢がありました。
 その頃、父から、「病院の建て替えをするから、設計段階にも関わるように」と連絡を受けたのです。そこでドイツに残るのをやめて2010年3月に帰国しました。そのまま久留米大に戻る予定でした。ところが、その年の4月に父が日本医師会の副会長になってしまったのです。父がヨコクラ病院を不在にすることが多くなったので、常勤医として病院に戻ることになりました。父には時間がなかったので、病院経営についてはほとんど母から教えてもらいました。2014年に病院を新築し、2015年に院長を引き受けました。

病院経営のキーマンは母
浜脇 世界医師会長にまでなられた横倉義武先生を前にして恐縮ですが、横倉家のキーマンは奥様だったのではないでしょうか。民間の中小病院の経営は家族全員で取り組まざるをえない“家内工業”ともいえる面があるため、どのような家族が経営者を支えているかということは、実はとても重要なところです。
横倉義典 おっしゃる通りだと思います。母は、結婚前は福岡市内の街中で暮らすお嬢さまでしたので、農村部の、実家よりは貧しい医師のところに来て、大変だったのではないでしょうか。
横倉義武 彼女とは、私が20歳の頃に出会いました。彼女は18歳でした。
浜脇 恋愛結婚だったのですか。
横倉義武 はい、そうです。学生の頃に結婚しました。父もそうだったので、親子二代で学生結婚です。
 彼女には感謝しかありません。私が病院を継ぐことになった時には、彼女は簿記の学校に通ってくれました。
横倉義典 私は学生結婚ではありませんが、大学を卒業してすぐに結婚しました。
浜脇 横倉家の秘密はそこにあるのですね。家のことを心配せずに経営に集中できる環境があったという。
 神野先生の奥様も活躍されています。
神野正博 うちの妻は、病院のインテリアや建築などに活かすといって、子育てがひと段落してから京都造形芸術大学に入りました。建築を学び、センスもいいしアイデアをたくさん出してくれます。私が病院の外に出てばかりいるので、彼女は病院を守るために、病院の中の仕組みづくりをすることを仕事にしています。今、中期事業計画も彼女が中心となり、理事長補佐や本部長と一緒に作っているところです。
浜脇 奥様とはいつからですか。
神野正博 つきあい始めたのは学生時代です。彼女は東京の人だったので、石川県の地理を知る前に「病院のある七尾は金沢のすぐそばだよ」と言って誤解させて、連れてきました(笑)。

臨床と経営のはざまで葛藤
高橋 神野正隆先生はいかがですか。
神野正隆 「病院を継げ」と言われたことは一度もないのですが、周囲からの暗黙のプレッシャー的なものはずっと感じていました。
 医師に憧れていたので、医師を目指すことに迷いはなかったのですが、医師になってからは、消化器内科医として1年でも長く、臨床の最前線で治療をしていたいという思いを強くもっていました。今でこそ臨床と経営の両立こそが必要だと思っていますが、以前は経営をするようになったら臨床はできなくなり、自分で患者さんを救うこともできなくなると思い込んでいました。ですから、「経営をしたくて医師になったわけじゃない」と心の中で反発する面もありました。
 大学の医局の人事で、消化器内科医として恵寿総合病院に戻ったのですが、最初の1年はなかなか経営に興味がもてませんでした。考えが変わったのは、国際医療福祉大学大学院で経営学修士(MBA)の勉強をしてからです。データをもとに経営を組み立てていくという講義があり、それをきっかけに組織マネジメントがすごくおもしろいと思えるようになりました。
 それまで、病院のなかで定性的な、エビデンスに基づかない議論が多いことに違和感をもっていましたが、データを活用してみたところ、院内の仕組みが良くなったという実感がありました。組織全体の仕組みや働き方が変わることで、職員と患者さんのメリットが増えていくことにやりがいを感じ、病院経営は自分の今後の人生を賭けるのに値すると思えるようになりました。
神野正博 彼がMBAの大学院に入って1年経つ頃から、データの活用に力を入れるようになりました。私自身はデータよりも感性で経営してきたので、新たなフィールドを見つけてもらってよかったと思っています。
 私自身、自分の父親とその周りにいた事務長さんたちに同じやり方では敵わないと思っていて、その頃新しく出てきたITを使って経営を進めようとしてきました。
神野正隆 父がこれだけアグレッシブにやってきたことを、自分が同じようにやるのは能力的に難しいと感じていたので、高橋泰先生のところで、父とは違う方法で同じ道を歩んでいくことを教えていただいて、よかったと思っています。

臨床も経営も全部みる
浜脇 医療だけをやってきた医師が経営の課題を突破することは、難しい面もあると思います。そこを神野正隆先生はMBAで学ばれました。
 横倉義典先生は、臨床を続けたいという思いと経営との間の葛藤はありましたか。また、経営の勉強はどのようにされてきたのでしょうか。
横倉義典 自分は、ヨコクラ病院に戻ったら臨床ができなくなるとは思っていませんでした。全部みてしまおうと思っていました。規模が小さな田舎の病院だから、ということがあるかもしれません。
 経営の壁にぶつかると、それを一つひとつ乗り越えながら何とかやってきたという感じがします。
横倉義武 農村の医療は地域の信頼がなにより重要です。私の父が地域で信頼を得て、私もそれを継続できました。そして息子も継続できています。
横倉義典 父が日本医師会の活動で東京に通っていたので、自分にとっても東京が近くなりました。そのため、東京で開かれる研修会などによく参加して、経営のことを勉強してきました。
 人間関係など、きっかけを父が作ってくれたという面もあります。
 祖父や父から受けた恩恵を世に還元するために、地域医療をどう守るかということを考えていくのが私の使命だと思っています。

人口減少で今後は“撤退戦”
高橋 横倉家、神野家ともに病院の中の管理者としての権限継承は順調に進んでいるのかなと思います。どちらも社会医療法人になられていますが、この次の世代、お子さんへの病院の継承ということを考えますか。
横倉義武 今後、人口減少が進んでいきます。病院もダウンサイジングをしていかなければならないのですが、それは非常に難しい。孫にそれをやってくれというのかどうか…。
 地域医療を誰かが守っていかなければいけないという思いはあります。社会医療法人にしたのは、横倉家がうまくできなかったとしても、誰かが病院をやってくれるようにという思いがあったからです。
横倉義典 社会医療法人になったおかげで、夜、眠れるようになりました。それまでは経営の不安で眠れないことも多かったのですが。
浜脇 時代の変化のスピードが速くなってきているので、以前なら10年かけて行えばよかったことでも、今は5年でやらなければならない。その中で病院経営を行うのは非常に大変なことです。私も娘に苦労をさせたくない。
横倉義典 ダウンサイジングは病院経営のなかで難しい判断です。ただ、福岡には大きな医療機関がたくさんあるので、無理にヨコクラ病院を維持しようと思ったところで無理なんです。ですから、地元に必要とされる医療が維持できればよいかなと思います。そのとき、社会医療法人の維持が難しくなるかもしれませんが、それはそれでいいかなと。
 いまは本当に大変な時代ですよね。中医協で議論されている内容を見ると、ここ半年くらいで病院を改変しなければいけない。来年どうなるか、5年後がどうなるかすらわからない。コロナが起きて、想定が変わったという面もあります。
 私には子どもが4人いますが、病院を子どもに継いでほしいとは全く思っていません。子どもたちが大人になったときに、病院が今と変わらずあるかということすらわかりません。一番上の子は医学部に行っていますが、経営より医師として生きる道を進んだほうがよいのかもしれないと思っています。
高橋 病院を建て替えるとき、今のような状況になると想定していましたか。
横倉義典 そうですね、病棟の改変などは、当時の私の想定の範囲内で動いています。ここまで看護師や医師の確保が難しくなるとは思っていませんでしたが。ですが、最悪の状況でも、私と妻の医師二人で朝晩回診して、地域の人を診られる病院となっても維持できればと思います。
神野正隆 私のところにも子どもが4人いますが、子どもに病院を継いでほしいとは、今の段階では全く思いません。自分は周囲からの無言のプレッシャーのなかで苦しいときもあったので、子どもにその思いをさせたくはありません。もし子どもの誰かが継ぎたいと言ったときには、相当の覚悟と責任が必要で、断固たる意志があるのか確認したいですね。
 社会医療法人ですので、その時に最も適切な人が病院を承継して、地域医療が維持できるのなら、それでいいと思います。
神野正博 人口減少の問題は、ひしひしと感じています。住民も減って、スタッフの確保も難しくなってきています。攻めるときには楽ですが、撤退戦というのは難しいですね。すでに去年・今年と介護施設を少しずつ撤退していますが、関係者間の調整が難しく、つらいのです。いずれ病院についても撤退戦を始めなければならない。ここまで広げてきたので、思い切った撤退は、自分がやる責任があると思っています。
浜脇 自分の代で、できるところまで規模を縮小しようと思っておられる。
神野正博 そうですね、県庁や市役所との調整能力は、彼より自分のほうがあるかなと思いますので。
高橋 大河ドラマ「どうする家康」の大阪夏の陣のシーンを思い出します。家康が「徳川が汚名をきる最後の戦だから、秀忠ではなく自分が指揮も責任もとる」と。横倉先生はいかがですか。
横倉義武 私は、細かいことまで自分が決めず、若い人に判断させたほうがよいと思っています。自分のもつ人脈で十分にサポートしたいと思いますが。
高橋 神野家と横倉家は、年齢がちょうど一回り違うので、対応が違ってきますね。

素早く決断できるのが強み
浜脇 病院の経営だけでなく、公的な役割も果たしたいと考えていますか。
横倉義典 私はすでに医師会活動に参加しています。地域では、行政と折衝していかなければうまくいかない。行政の人に、医療現場の状況を伝えていかなければならないと思っています。
神野正隆 父が公的なものに関わることで得た知見により、病院で大きな改革を行ってきたのを見てきました。そのため、自分も最終的に公的な役割に関われる機会があれば、やりがいがあるだろうと思っています。
 ただ、自分にとって一番大切なのは病院の職員とその家族ですので、そこをきちんとした上でするということは大前提です。
高橋 世界的にみると、日本の医療はコストパフォーマンスが高く、多くのサービスを低コストで国民に提供できています。それを支えているのが民間病院です。民間病院の良さはどこにあると思いますか。
横倉義典 方針を変更したり、新しいものを受け入れるための大きな決断をするときに、「責任は自分がとるのでこれでいこう」と素早く決断できるのが民間病院の良さです。公立病院はそれができないので、議論に時間がかかり、費用も人件費もかかってしまいます。
 私は、「来月、報告できることなら、明日議論して、明後日に報告しなさい」といつも言っています。
 他方、マイナスがあるとすれば、経営者に苦労があることです。社会医療法人とはいえ、民間のエッセンスを残しており、経営の責任は強く感じます。
神野正隆 同感です。スピード感があることが民間病院の圧倒的な強みだと思います。自分も父もせっかちで、よい仕組みであれば明日にもやりたいと思うタイプです。
浜脇 最後に、事業承継を行う読者に対してメッセージをお願いします。
横倉義武 若い方たちに重荷を背負わせたくはない。だから、しっかりがんばりなさいとしか言えません。
 大変な苦労があると思いますが、医療の世界はやりがいがあります。人間には、やりがいがないとね。
神野正博 世の中、これから厳しくなるけれど、明るく楽しく前向きに!
高橋 ありがとうございました。


横倉義武 理事長


横倉義典 院長


神野正博 理事長


神野正隆 理事長補佐


高橋教授


浜脇理事長

 

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