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ホーム全日病ニュース(2019年)第948回/2019年9月15日号戊辰戦争最大の悲劇を敗者の視点で語る...

戊辰戦争最大の悲劇を敗者の視点で語る

戊辰戦争最大の悲劇を敗者の視点で語る

【全日病夏期研修会・福島】会津藩主の子孫、松平保久氏が講演

全日病は8月25日、全日病福島県支部(土屋繁之支部長)の主催で夏期研修会を開き、会津松平家14代当主である松平保もり久ひさ氏が「会津の義~戊辰150年の想い~」をテーマに講演した。戊辰戦争最大の悲劇と言われる会津戦争に至った歴史の中に、愚直とも言える会津魂を持った人々がいた。松平氏は、敗者の視点での歴史が語られることも重要であると訴えた。
 会津藩主初代・保科正之は三代将軍・徳川家光の異母弟にあたる。二代将軍・徳川秀忠と妾であったお静との間にできた子であり、司馬遼太郎は「会津松平家というのは、ほんのかりそめの恋から出発している」と書いた。このような出自が幕府への忠誠心につながっている。
 時代が下り、日本が欧米列強から圧迫を受け、国のあり方をめぐり、騒乱が生じていた京都で、9代藩主・松平容保は京都守護職に就任する。家臣たちは「火中の栗を拾うもの」と進言し、松平容保も固辞するが、会津藩の始まりに言及する松平春嶽らの執拗な促しがあり、最終的に引き受けることになった。
 当時、世論は「尊王攘夷」対「公武合体」、「倒幕」対「佐幕」に分かれていた。孝明天皇は「公武合体」を支持しており、会津・薩摩が長州を追い出した禁門の変では、松平容保は孝明天皇の喜びを伝える宸しん翰かん(天皇直筆の文書)を受けた。しかし、その後、孝明天皇の崩御、大政奉還など思いも寄らない展開があり、鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍に参加し、敗北。徳川慶喜とともに江戸に逃れた。
 江戸城が無血開城されても、明治政府軍は佐幕派への攻撃の手を緩めず、会津藩を「朝敵」と断定した。戊辰戦争で東北最後の戦いとなった会津の鶴ヶ城(会津若松城)の籠城戦では、明治政府軍の砲弾が連日、数千発撃ち込まれたという。城内は地獄絵図と化し、城外では白虎隊の集団自決の悲劇も生じた。1868年9月22日に松平容保は白旗を掲げた。
 講演した松平保久氏は「歴史は勝者により語られることが多い」と指摘し、「この戦に本当に大義はあったのか」と問いかけた。また、「敗北の将であり、民に苦痛を与えた。しかし、会津の人々は会津藩主松平家を慕ってくれる」と、歴史により形作られた地域の人間関係の強さに自信をみせた。

 

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